審正館弓道場

沿革

審正館 紋 審正館は昭和7年、小林治道・安藤宇助両先生のほか数氏の同士が相より「体勇社」より独立し東山知恩院山内の「良正院」境内に尾州竹林派の弓道場として設立された。
昭和24年春、「良正院」の寺院経営上から道場の立ち退きを求められ審正館を一時閉鎖するというやむなき事態に至った。
昭和24年6月「仏光寺本山」境内に芝田秀治氏ほか数名の有志と、審正館の会員が協力をし射場を建設し「仏光寺弓道場」の名称で京都府弓道連盟に加盟し事実上審正館が再発足をする。以来、多くの弓人を育て、特に戦後京都の高校弓道復活の第一歩として「堀川高校弓道部」が仏光寺弓道場を練習場として発足をした。
昭和31年3月、仏光寺本山の都合により弓道場を閉鎖することとなり、代替地として近くの「平等寺・因幡堂」の境内に適地を見出した。信徒代表であった武内常三郎先生の斡旋により因幡堂と交渉の末、因幡堂の暖かいご理解により弓道場を移転することとなった。仏光寺弓道場の資材と資金を集め、大工・山本亀次郎氏の犠牲的な設計・施工と会員の協力を得道場の建設がなった。また名称を会員の衆議により元の「審正館」とし名実ともに再発足した。昭和31年7月7日、京都の弓人多数の来場を得て披露の射会を催した。
審正館は毎年5月には、全日本弓道大会や定期中央審査に参加される弓友のため早朝より道場を練習の場として開放している。
昭和54年にはこうした活動に対し全日本弓道連盟より感謝状が贈られた。感謝状

また平成13年1月には弓道の普及・発展に功労した武道優良団体として日本武道協議会より表彰を受けた。
表彰状

平成15年10月審正館創立70周年祝賀射会を催す。
平成25年9月審正館創立80周年祝賀射会を催す。
令和4年10月審正館創立90周年祝賀射会を催す。


歴代館長

初代 小林治道
小林治道館長射を関口源太先生に学ばれ、その技は皆の認めるところであり、北野の武徳会支部における京都の昇段審査の委員長を努められていたが、昭和13年没せられるとともに武徳会より範士を贈られる。


二代目 牧野憲一
四国・新浜より館長として迎える。先生は道場の整備・拡張を図られるとともに全国知名の範士の先生方を顧問に迎えられた。当時の武徳会華やかなころの武道祭に参加される弓道家に門を開かれた。また顧問の範士の先生方を審査員として独自の演武大会を開くなど隆盛を極め、その名を全国に知られるようになる。

三代目 武内常三郎
第二次世界大戦後、市内にあった弓道場が閉鎖される中、多くの弓道愛好家のために審正館の門を開き、流派にこだわらず道場を開放され戦後の弓道復興に尽くされる。

四代目 上田仙太郎
上田仙太郎館長昭和31年7月館長に就任。
良正院時代の審正館より館長を助けて館の運営にあたり多くの弓道愛好家を育てられた。京都府弓道連盟の発足以来その運営に携わり副会長を努められる。
昭和33年9月 病を得て没せられる。


五代目 上田敬治
上田敬治館長昭和33年10月会員一同の推挙により館長に就任。
前館長の遺志を継ぎ道場の発展と弓道の普及・発展に努められる。
平成5年京都府スポーツ功労賞 受賞。
平成10年京都府スポーツ特別功労賞 受賞。
平成12年京都府体育協会三色特別功労賞 受賞。

六代目 中川慎之
中川慎之館長平成15年10月館長に就任。
範士九段。平成17年4月より京都府弓道連盟会長を務められ審正館会員の育成とともに京都弓道会の発展に尽力された。
平成10年京都府スポーツ功労賞 受賞。
平成13年京都府スポーツ賞 受賞。
平成24年1月病を得て没せられる。

七代目 大堀晏敬
大堀晏敬館長中川範士が平成24年1月に病にて没せられた為、役員会の総意により七代目館長に就任。
六代目館長 中川範士の時代より京都府弓道連盟の理事及び審正館の幹事長を務められる。
平成24年より令和2年度まで京都府弓道連盟会長。
令和5年春の旭日双光章 受章。


八代目 寺尾宗治(現館長)
七代目館長 大堀晏敬より館長就任の要請を受け、平成30年4月に八代目館長に就任。
六代目館長 中川範士の時代より会の発展に努める。
平成24年より審正館 副館長に就き、平成29年の道場改修に尽力する。
【略歴】
昭和40年 熊本県にて金子清則 範士十段・高橋忠士 範士八段・山口春樹先生に師事
昭和52年 深町芳洋教士七段(山口県)に師事
平成17年 審正館 中川愼之範士九段に師事
平成26年 尾州竹林流『徳風会』に入会
      魚住一郎 範士九段・渕元魏 範士八段・長江辰彦 教士七段に師事